初詣にお寺に行くのはアリなのか?調べてみたよ

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初詣といえば神社。そういうイメージがありますよね?

そこでふと「お寺には行っちゃいけない」とか「両方に行くべきではない」とか、そういう何か言い伝えみたいなのがあったりするのかな?と気になったので、調べてみました。

結論から言うと

初詣にお寺に行っても全然問題ない

元々日本は「八百万(やおよろず)の神」といって、全人口が100万人ぐらいしかいない時代に800万もの神々を崇めていた = 要するに神的な存在は無限に大量に存在するというような考え方をしてきた、そういう国であり民族で、そのことがよく分かる話としてはたとえば『気に入った石ころをいつも持ち歩いてお守り代わりにしていた』なんて話もあるぐらいの民族です。

なので、そういう日本的な神の捉え方を考えればそもそも「神社はOK」「お寺はダメ」なんてゆういかにも欧米的な信仰の仕方は日本流じゃありません。となると今回ふと気になった「初詣にお寺はアリ?」というのも、その疑問からしてそもそも見当違いなんですよね。そんなことを調べた後に思いました。

神仏習合 = 神も仏も一緒(つまり大事なのは…)

初詣の対象は神社・寺院のいずれでもかまわないとされている。これは明治時代初期に神仏分離が行われる前は、神道と大乗仏教、ならびに祖霊信仰が一体化した神仏習合による信仰が一般化していたためである。

初詣 – Wikipedia

日本人の宗教観というのはとても素朴で、端的に言えば『そこに神がいると思えば神はいる』みたいな感じの、もうちょっと違う角度から見れば『結局のところは自分の精神に帰依する』ような宗教観があります。だからお守りは石ころでもいいし、そして拝んだり崇めたりする対象に「大きな岩」だったり「大きな木」を選んだりして『ここに神が鎮座している』と考えたりできるわけです。

そしてそれだけ「結局のところは自分の精神に帰依する」ような感じですから、外国から仏教が入ってこようとキリスト教が入ってこようと「そんな素晴らしい神がいるんだ。それじゃそれも大切にしなきゃね」ぐらいの感じで、何でも受け入れることができたわけです。そのため(キリスト教はちょっと下心があり過ぎたから日本社会に宗教としては馴染まなかったけど)神も仏も一緒くたに崇める神仏習合と呼ばれる信仰が一般化したわけです。

大事なのは自分の気持ちで、形は何でもアリだから、行きたいと思ったところに行けばいい

つまり、日本の伝統的な宗教観に照らし合わせて考えれば、極端な話「元日に改まって先祖や神々に思いを馳せれば、それで十分」みたいな話でもあります。生活に多少のゆとりがある人は恵方詣りでもすればいい。現代は昔に比べたら総じてゆとりはあるから、じゃあ好きなところ行けばいい。そんな感じですね。

参考 恵方詣り – Wikipedia

まとめ

なんか、調べるというより「忘れていたことを思い出した」という記事になってしまいましたが、これも年末ならではのいい機会となりました。改めて「そういえば日本の宗教観ってこういう感じなんだよな。ほんと素敵だな」と感慨深く思いました。

世界の他の国々の宗教観を否定するわけじゃないけど、何か絶対的な神がいて、教えに背いたことをすると罰せられる…そういう考え方は日本的ではないんですよね。日本の宗教観って「お天道様が見ている」みたいな、だから「お天道様に顔向けできないようなことはしない」っていう。自分で自分を律するタイプの宗教観なんですよね。

何が良くて何が悪いとかそういう法律的であったり懲罰的であったり、もっと言うと絶対王政的であったりする諸外国の宗教観とは違って、すべては結局のところ個々人の良心に委ねられているというか。漠然とではあるけれど古来から受け継がれている尊い精神性に委ねられているというか。

やっぱり日本って国は稀有な国ですね、まったく。これも、同じ土地に同じ民族が同じトップ(天皇)をいただいて何千年もの長きに渡って歴史を刻んでこれた唯一の国ならではのことだと思います。この精神性の部分に関してはそういう恵まれた境遇のお陰で他国の追従を許さない素敵なものがあるんだから、そういう部分で世界の豊かさに貢献できるようしっかり日本国民として情けなくない生き方をしていかねば。

なんて、なんだか初めの主旨とはだいぶ違った方向に記事が帰結してしまいました。

タイトル書き換えようかな?
いや、いいか。
書き換えたらまた本文も書き換えなきゃいけなくなるから面倒だ(笑)


ではまた

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